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木嶋神社

木嶋神社(このしまじんじゃ)は正式名称は「木嶋坐天照御魂神社」

「蚕の社」ともいわれている。

吾妻鑑

申刻。胤義父子於西山木嶋自殺。


吾妻鑑 承久三年六月十五日条

「夕方、胤義父子が西山木嶋において自殺。」

前田本承久記 胤義自害の事

ふんわり現代語訳

 胤義は「東山で自害しよう」と思ったが、都合が悪くなり、「太秦に幼子を残している。その子らを隠して置ける場所まで避難しよう。けれどこの先には多くの敵勢がいるようだ。ここに隠れて日が暮れてから、太秦に向かおう」と、西山木島の社の内ににて、女用の牛車の中に隠れた。

 胤義の古くからの郎党に、藤の四郎入道という者がいる。高野山に籠っていたが、戦があると聞いて、主の行方を探して、都へ上ってきた。木嶋神社を通り抜けようとしたところ、森の中でばったり出会った。藤の四郎入道は思わず涙を流す。「どうしてこんな所にいるのですか」と尋ねると、「西山に幼子たちがいるので、一目見てから自害せん思っていたが、敵が大勢いるというので、ここで日暮れまで待って、夜に紛れて行こうと、休んでいた」と答えた。

 入道は、「敵はもう周りを囲んで、次々に増えています。どうやって坊ちゃんがたの所へいくというのですか。あなたは東寺の戦ではかっこよかったですが、妻子の事を気にかけて、女用の牛車に乗って逃げていくのを、車から引きずり出だされて、討たれたと言われるのが悔しい。三浦一門の名に傷がつきましょう。私が三浦の識者として申し上げます。この社にて御自害してください」と言った。胤義は「よくもまぁそこまで言えるな」と言い、「では、太郎よ。先に自害してみろ。見ていてやるから安心しろ」と言いい、嫡子太郎兵衛は腹十文字にかき切って死んだ。

 胤義はその後を追うために、形見を入道に渡した。「藤の四郎入道。お前はオレたち父子の首を持って、兄義村の元へ行き、こう伝えろ。『この首で勲功の賞をもらえる事を、どう思われるだろうなぁ? 今までの合戦で、同族他家を滅ぼしたと悪口を言われていたが、こんどは胤義一家さえ滅ぼしたと言われる事が、逆に哀れだなぁと思うよ』と」と言って腹かききった。入道は首を取って、森に火かけて、骸を焼いた。

流布本系承久記は、さらに詳しい様子が描かれている。

ちなみに、木嶋神社は確かに鎌倉時代初期に大規模な整地がされていた事が発掘調査で分かっている。

公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報 2002-15

都名所図会

本殿の隣にある「魂鎮社」が胤義父子を祀った社。しかし明治に近隣の村々の神社を合祀した際に、一緒に末社に入れられた。どれかはもう神主でもわからないらしい。

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