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寂光院

大原には、平清盛の娘、建礼門院徳子が晩年を過ごした「寂光院」がある。

朧の清水

建礼門院が、寂光院に来る時にこのあたりで日が暮れて、月の光で自分の姿がおぼろげに映ったという謂れがある。その時に、やつれた自分の姿を見て、身の上を嘆いたという。

後世では、吉田兼好や与謝蕪村が、この朧の清水を題材に、歌や句を作っている。

紫葉漬と大原女

 平安の昔 寂光院に住まわれた建礼門院が、大原の里人から献上された夏野菜と赤紫蘇の漬物のおいしさに感動され、紫葉漬と名付けられたと伝えられています。

本来、紫葉漬とは夏野菜と赤紫蘇を塩漬けにし乳酸発酵させた素朴な漬物を指します。そして使われ赤紫蘇は、大原盆地で繰り返し栽培されている為、原品種に近く、香り品質ともに、最上級と言われています。

この赤紫蘇を使って大原で漬けた紫葉漬は京都府の伝統食品(京つけもの)の認定を受けています。

 また、建礼門院の女官 阿波内侍のお姿がルーツであると伝わる大原女は、数々の書画や文献に残され、大原伝統文化の象徴として大原観光保勝会が保存に努めています。

 この度の建礼門院の八百年御遠忌に因み、大原のしば漬業者、赤紫蘇に縁のある者が、こぞって建礼門院の遺徳をしのび御恩に感謝の気持ちを表し、記念碑を建立して、後世に伝えるものです。

平成二十五年四月十五日

大原御幸

謡曲「大原御幸」と寂光院

文治二年(一一八六)四月 後白河法皇が壇ノ浦で平家が滅びて以後、洛北寂光院に建礼門院(徳子・高倉帝の皇后)を尋ねられた事は、「平家物語・灌頂巻」にくわしく、また謡曲「大原御幸」にも謳われている。当時、法皇は鞍馬街道から静原を経て江文峠を越え大原村に入いり寂光院を訪ねられているが、ここ寂光院の本尊は聖徳太子御作の地蔵菩薩で、その左に建礼門院の木像や阿波ノ内侍の張子の座像が安置されている。謡の詞章にそって緑羅の垣根、汀の池などが趣をそえ、うしろの山は女院の御陵域になっており、楓樹茂り石段は苔むし謡曲をしのぶことができる。

寂光院

天台宗の尼寺で、山号は清香山。寺号は玉泉寺という。推古二年(五九四)に、聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために建立したと伝えられる。初代住職は、聖徳太子の御乳人であった玉照姫で、その後、代々貴族の姫君らが法燈を伝えてきた。

 文治元年(一一八五)九月、平清盛の息女、高倉天皇の皇后である建礼門院徳子が、壇ノ浦で滅亡した平家一門と子・安徳天皇の菩提を弔うため出家、入寺し、終生をこの寺で過ごした。それ以来、御閑居御所、また、高倉大原宮とも称されている。翌文治二年(一一八六)、後白河法皇が御幸したことは、平家物語や謡曲で有名な大原御幸として知られている。

 旧本堂は内障及び柱が飛鳥様式、藤原時代及び平家物語当時の様式、また外障は安土桃山様式で、慶長八年(一六〇三)に豊臣秀頼が修理したという歴史的に貴重なものであったが、平成十二年(二〇〇〇)五月九日の火災により全焼し、その姿は永遠に惜しまれるものとなった。ともに焼損した聖徳太子の作と伝えられる旧本尊・六万体地蔵菩薩は重要文化財の指定が存続されているが、損傷が甚だしいため、収蔵庫に安置されている。現在の本堂及び本尊は平成十七年(二〇〇五)六月に焼損前のものを基に忠実に復元されたものである

 

千年の姫小松

建礼門院庵室跡地


高倉天皇皇后徳子 大原西稜

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