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橋本宿

橋本宿は、東海道の宿場町。現在の静岡県湖西市新居町にあった。

1190年、頼朝様が上洛する際に宿泊したから、周辺には頼朝様関連の史跡がいっぱいある。

また、1221年の承久の乱の時も、幕府軍が宿泊した。

1190年 頼朝様上洛関連史跡

源太の山

 元久元年(一一九〇)、源頼朝が上洛の途中に橋本に宿泊した時に、頼朝の家来梶原源太景季は警護のため、金山(源太山の旧名)にあった大松の上で物見をして警戒にあたった、といわれている。

 こうした言い伝えから里人はこの山を「源太ノ山」、大松を「物見の松」と呼んだ。

 大松は明治四十五年(一九一二)に枯れ、山も新居停車場の埋立に使われたため、面影をとどめていない。

平成二十二年三月 湖西市教育委員会

平次ヶ谷

う、埋もれてるぅうううううう

 ここは新居地内で標高も高く見晴らしのよい場所である。

 建久元年(一一九〇)、源頼朝が上洛の途中、橋本に滞在した折に家臣の梶原景時の二男平次景高がここの大松に登り、平家方の静動を監視したことから、このあたりを平次ヶ谷と呼んだという。

平成二十二年 湖西市教育委員会

ま、松? どこ……

ちなみに梶原景高殿の二人の息子は、承久の乱の時にオレと宮方で戦ったぞ!
宇治橋の戦いの時に……大将を逃がすために足止めして、壮絶な討死をしたのだ……。

ちなみに近くの平次ヶ谷公園では、クリスマス時期になるとイルミネーションをやっているらしいぞ

妙相と頼朝様

奈良時代に開基した、「応賀寺」に伝わる話。

橋本宿の長者の娘を、頼朝様が気に入り、扇子と団扇をプレゼントした。

頼朝様の死後、娘は出家して妙相と名乗り、応賀寺の尼となった。

応賀寺には扇子と団扇が伝わっている。

また、 妙相は守り本尊の毘沙門天を応賀寺に奉納したが、その中から文永七年(1270)という記述がある、『妙相夢想造立記』 という願文が見つかった。

内容は河内国の朝護孫子寺を訪れた4つの夢を見た後、この毘沙門天を作ったというもの。

妙相という尼がいたのは確かかもしれないが、頼朝様上洛から80年も経っている……

そういえば……

源義平殿の母は「橋本の遊女」って話もあったなぁ。

女屋跡

 橋本宿は鎌倉時代、東海道の宿として栄えたところで、遊女が多くいたことから花香町とも呼ばれた。

 ここは橋本宿の長者屋敷の一角と考えられ、建久元年(一一九〇)源頼朝上洛の際に多数の遊女が群参したことからこの長つけられたといわれる。長者の娘妙相と頼朝の恋物語が残っている。

 一説によると、頼朝の家臣が止陣した「御長屋」の跡とか「御納屋」との説もあるが定かではない。

平成二十二年三月 湖西市教育委員会

紅葉寺跡

ここも妙相ゆかりの史跡

 この寺は、紅葉山本学寺といい、室町幕府六代目将軍足利義教が永享四年(一四三二)に富士遊覧のときに立ち寄って紅葉を鑑賞したので、紅葉寺といわれている。

 建久元年(一一九〇)の頼朝上洛のおり、橋本に宿泊した頼朝の寵愛をうけた長者の娘が、のちに出家して妙相と名のり、高野山より毘沙門天立像を勧請して建てた寺といわれている。

平成二十二年三月 湖西教育委員会

風炉の井

 この井戸は深さ二メートル、口径は最大一・八メートルあり、、以前はもっと深かった。

 言い伝えによると、建久元年(一一九〇)源頼朝が上洛の折、橋本宿に宿泊した時にこの井戸水を茶の湯に用いたとされる。

平成二十二年三月 湖西市教育委員会

道は細くて、付近に車を一時停止できる場所はない。

浜名橋跡

橋本宿の中心地! 当時は大きな橋が架かっていたんだ。まぁよく流されてたんだけど……。

戦国の世の時に大地震で地形が変わってしまってのう……。橋本宿は新居宿に移り、今は面影は残ってないのう。

 今切口ができる前の浜名湖は淡水湖で、浜名湖から太平洋に浜名川が流れ、そこには浜名橋が架けられていました。

 しかし浜名川は災害により何度も流路が変わり、橋の場所も移動して架け替えられました。口伝によれば浜名橋の跡地がこのあたりとも言われています。

 平安時代の浜名橋の規模は長さ一六七メートル、幅四メートル、高さ五メートルほどであり、当時としては大きな橋でした。浜名橋付近は風光明媚な景勝地として知られ、東海道を往来した旅人の日記や和歌にしばしば登場しています。

平成三十年六月 湖西教育委員会

浜名橋が出て来る日記

題名作者成立年
更科日記菅原孝標女1060
海道記作者不明1223
うたたね 阿仏尼 1240
東関紀行作者不明1242
十六夜日記阿仏尼1279

これらを読めば当時の様子がなんとなくわかるかも……?

1221年 承久の乱関連史跡

承久の乱の時にも、幕府軍は橋本宿に泊まった。

その夜、 津久井高重は 「小野盛綱が京方にいるのだから、京に行くのが筋だ」として深夜に10人の郎党と共に抜け出した。

北条時房に気づかれて、追っ手を差し向けられ、追い付いて戦闘となったのが「石墓」 。どこかは不明だが、地名からして「愛知県豊川市長沢町石塚」だろうと言われている。

豊津町にも石塚はあるが、長沢町は旧東海道も通っているしな……

覚悟を決めた津久井は、幕府軍と戦い、戦闘は一晩中続いた。

明け方、津久井高重とその郎党、11人の首が「本野原」に晒された。

時房は、その知らせを受けて意気揚々と観に行ったが、その首を見て「誰一人も逃げないで、最後まで戦ったのか」と衝撃を受け、深く追悼の意を示したという。

本野原は、御油から豊川にかけて広がっていた。
他にも「本野町」や「穂ノ原」「本野ケ原」という地名が残ってる。

本野原はだだっ広い笹原で、方向が分かりにくい。
そこで「姫街道沿い」に、北条泰時が道しるべとして柳を植えたらしい。

もしかしたら、津久井高重たちの首もこの街道沿いにさらされたのかもなぁ。

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