「田村」は相模川やいくつのも道が交差する流通の拠点。
元々は大庭氏のものだったが、どういう経緯か三浦義村の領となる。
田村の渡し場
田村の渡しは、中原街道と大山道の二つの往還の渡しでした。中原街道は中原村と江戸を結んだ脇往還で、大山道は藤沢・江の島からの大山参詣のために使われた道です。
渡し場のある田村は、この両往還と平塚から厚木へ向かう八王子道が交差する所で、旅籠屋などもあり、「田村の宿」とも呼ばれていました。
渡船場の業務は、田村と一之宮村・田端村(寒川町)の三か村が務めていました。
また、田村の渡し場付近は、大山・箱根・富士山を眺望することができ、景勝地としても知られていました。
平塚市
田村館跡
この地一帯は鎌倉時代の武将三浦平六義村の田村ノ館の蹟である 承久元年七月鎌倉第四代の征夷大将軍を嗣ぐべき人として迎えられた藤原頼嗣は五日間この山荘に滞在し 七月十九日晴れの鎌倉入府を行った 東鑑によると頼経将軍は数回来泊している 安貞三年七月廿三日もそのひとつである この時は執権北條泰時 連署北条時房等 鎌倉の将□多数が扈従し 三日間にわたり田村の秋興を満喫した 館は田村の渡につらなる古街道に面し 大手を□をもっていたものと思われる 義村は延應元年十二月に歿している この館はそれに前後して廃されたものとおもう
承久元年より七百四十年 昭和丗四年春建 平塚市長戸川貞雄□
真洲田中真治書
この付近一帯は三浦平六義村氏の館跡と伝えられています。市はここに昭和三五~三七年に木造平家建九十三戸を建設しました。
その当時、田村の皆様は由緒ある館跡地が永遠に消える事を憂慮されこの敷地の一部でも後世に伝えたいと「由縁の碑」及び館跡地の一部二八一平方米(八三坪)を市に寄付され、市は田村館跡地として管理してきましたがその後昭和五六~五八年に木造住宅を中層耐火構造住宅に建て替えした時、この事業に伴い寄付当時の位置から北側に若干移設し現在のように整備したものです。
平成元年四月吉日
平塚市
八坂神社
田村橋の近くにある八坂神社は、田村の鎮守だが、特に兄上の話は伝わっていない。ちなみに御朱印もないそうだ。