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承久の乱戦没者供養塔

岐阜県各務原市にある仏眼院に、承久の乱の戦没者の為に建てられた供養塔がある。

元々はもう少し西にあったが、木曽川の氾濫のために埋もれてしまったのを、昭和になってから発掘し、当地で改めて祀った。

承久の乱と摩免戸の戦い

木曽川と戦乱  日本のほぼ中央部を流れる木曽川は、古来しばしば戦乱の要衝となり、なかでも木曽川はこれを制したものは戦勝するとまでいわれ、特に摩免戸(前渡)地内の木曽川は戦術面で大きな価値を持ち「承久の乱」では最も重要な陣が置かれたところである。


承久の乱  源氏の正統は頼朝、頼家、実朝の三代で絶え、頼朝の死後、鎌倉幕府は肉親の争いと粛清が相次ぎ頼家、実朝も権力抗争の中で暗殺された。そうして絶大な権力を握ったのが北条氏である。幕府の執権北条義時は、将軍の血筋が絶えた後、後鳥羽上皇に皇族の将軍を願い出て断られると頼朝の遠い血族にあたる頼経を将軍に迎えて幕府政権を維持した。政権奉還を望んでいた上皇は承久三年(一二二一年)五月十四日「やぶさめ」にかこつけて諸国の兵を集め討幕計画を練った。北条氏に不満を持つ三浦胤義ら在京の幕府御家人らも多く参画し、義時追討の院宣が下り、鎌倉幕府の中で義時に対抗しうるただ一人の人物三浦義村に対し弟の三浦胤義を通じて密書が送られたが、義村はそのまま義時に通報してしまい討幕計画は初めから手違いが生じた。それでも院宣の効果が現れ鎌倉御家人の多くが動揺の色を見せ始めるが、この危機を救ったのが「尼将軍」政子の「頼朝の恩を忘れたのか」の涙ながらの訴えであった。鎌倉側は義時の子泰時を大将としてただちに進撃を開始、京都方も胤義、藤原秀康らを大将として進発し、六月五日両軍は木曽川を挟んで対峙した。大井戸(可児市土田)から市脇(羽島市市之枝)まで、九ヶ所の渡しを、京都方は総勢一万七千五百騎をもって固めた。そのうち、この地、摩免戸(前渡)を防備の中心におき、一万騎を集結して鎌倉軍の攻撃を防ぐことになったが、十数万騎にのぼる大軍を前に大井戸、鵜沼と相次いで落ち各前線守備はたちまちにして破られてしまった。摩免戸を守っていた京都方の主将、秀康胤義は退いて宇治、瀬田で防備戦を確保しようとして杭瀬川で追撃軍と激闘奮戦するが、最後は京都嵯峨野で自刃する。六月十五日鎌倉軍は、都に入り「承久の乱」は一ヶ月で鎮圧され以来、朝廷、貴族の権威は下落する一方となり、逆に幕府、武士の権力はますます大きくなったのである。この不動山腹に安置されている五輪塔郡は両軍の戦没供養のため、この地域の人々の手により西宮寺(前渡西町地内)に安置されたもので、その後、木曽川の氾濫により寺は流され供養塔も埋もれたままになっていたが、昭和初年に発掘され、かかわりの深い当山に移転安置したものである。以来毎年六月五日に供養祭を行い今日に至っている。

各務原市観光協会 各務原市教育委員会 承久の乱保存会

案内板では「毎年6月5日」となっているが、現在では「毎年6月第一日曜日」である。承久の乱の供養塔を前に経を詠み、地域ゆかりの議員や小中学校の校長も参加する。地域色は強いが誰でも自由に参加可能。ただ坂が結構な急勾配で、日陰もあまりないので注意。


承久の乱 両軍対陣図

 承久3年(1221年) 京の朝廷と鎌倉の幕府との対立が深まるなか、後鳥羽上皇を中心とする京方は討幕を決意し、機内近国の武士を集めました。これに対して北条義時を中心とする鎌倉方は鵜沼から墨俣あたりにかけての木曽川沿岸(尾張と美濃の国境)へ侵攻し、迎え撃った上皇軍は鎌倉方の圧倒的な兵力のもとに敗退しました。
 木曽川を渡った幕府方はその後まもなく京を制圧し、戦いは幕府の勝利におわりました。
 この地の供養塔は、木曽川をはさんで戦われた「摩免戸(前渡)の戦い」で討ち死にした両軍の武士たちのために建てられたとされ、以前は山のふもとにありましたが、散逸を防ぐためにこの地にあつめて保護されています

布陣については以下も参考に

美濃国旅行記2013

墨俣の大太刀_甲が行く美濃国旅行

承久の乱合戦記

 承久三年 後鳥羽上皇が鎌倉幕府追討兵を挙げて敗れた事件なり

 原因
 鎌倉幕府成立により打撃を受けた公家勢力は政権回復を狙っていたが承久元年三代将軍源実朝の死後幕府内紛に乗じ後鳥羽上皇を中心に幕府崩解を図り北条義時追討の院宣を出した

 経過
 幕府方は義時を中心に団結し北条泰時同時房に大軍を率いて上皇方を破った

 前渡の戦
 承久三年六月五日木曽川に九つの渡しをはさんで夜戦を始めた 西軍の中心部は摩免土(前渡)でこの渡しに一万余騎の兵力が配され北条泰時の主力部隊を引受け戦う 六日払晩から東軍は一斉に川を渡って攻撃した 西軍は敗れ京都においつめられる 乱後幕府は仲恭天皇を廃して後堀川天皇立て後 高倉院は院政を執らせて後鳥羽・土御門・順徳の三上皇が島流しとなり 実に未曽有の痛恨事なり

MAP

岐阜県各務原市前渡東町1975−1 仏眼院(前渡不動)

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