ようこそ源平合戦沼へ……
源平合戦を調べ始めた皆さんが、まず引っかかるであろう事。
源氏の家来が平氏なの? こいつら平家裏切ったの?
まぁ、中にはそういう平氏もいますが……
源平合戦は、単純に平氏VS源氏ではないのです。
平家と平氏
そもそも、平氏・源氏とは何かというと……、
天皇にはたくさんの子供がいますが、皆が皆天皇になれるわけではありません。
まず将来の天皇候補、「皇太子」が選ばれます。そして皇太子になれなかった天皇の子たちは姓を与えられ、天皇や皇太子に仕える事になります。それが「源・平・藤・橘」です。
ちなみにこれが本姓となり、名乗るときは「の」が付きます。
平清盛(たいら の きよもり)
源頼朝(みなもと の よりとも) などなど。
天皇から与えられた姓以外には「の」はつきません。
とにかく、平氏も源氏も天皇の子孫。
当時はこの四つしかないものですから平氏も源氏もうじゃうじゃいます。
そこで、本拠地の地名を取って名乗っていました。
源平合戦における「平家」は伊勢平氏と呼ばれています。
源氏は河内源氏とよばれているのです。
そして、河内源氏の棟梁である源頼朝に従ったのは坂東平氏です。
源平合戦から250年ほど遡ります。
平将門の乱
伊勢平氏も坂東平氏も元々は同じ桓武平氏という、桓武天皇の子孫高望王(平高望)の子孫です。
じゃぁやっぱり親戚なんじゃん! とお思いでしょうが、250年も前です。11代ぐらい前のご先祖です。ひいひいひいひいひいひいひいひいひいひいじいちゃんです。ここまで来たら、流石に他人です。
では、なぜ別れてしまったかというと……
高望王さんは皇太子になれず、平姓と上総(千葉県の真ん中らへん)の土地を貰いました。都では出世はできないと考え、正室の子たちを連れて関東にやってきて土着の武士となりました。
同じように常陸国(茨城県)にいた源護さんの三人の娘さんを自分の息子と結婚させたりして、周辺の国とも上手くやっていました。(この源さんは河内源氏とは関係のない源さんです)
さて高望王の子の一人、良将さんは下総国(千葉県の北部)の佐倉に所領をもち、子の将門くんは京へ行って中級官人となり、コネクションを着々と作っていました。
ところが良将が若くして亡くなってしまい、将門くんは故郷に帰りました。
すると、なんてことでしょう。将門くんの叔父さんたちが、お父さんの土地を乗っ取っていました。
将門くんは仕方なく、下総国の豊田に引っ越して、そこで新たに勢力を培う事にしました。
ある日のこと、将門くんの奥さんは常陸国の源護の三人の息子に横恋慕されていました。
そこで源三兄弟が将門くんを待ち伏せし、攻撃して合戦となりました。
将門くんは三兄弟を返り討ちにして、ついでにお父さんの土地を乗っ取った叔父の一人国香を攻めて打ち取りました。
ここから将門くん大暴れ、いわゆる「平将門の乱」です。
暴れまわって、調子に乗って、ついに「オレ、東国の天皇になるわー」とまで言ってしまったので、朝廷が本気出して討伐してしまいましたとさ。
さて、本題に戻しましょう。
この時、将門くんに打ち取られてしまった国香さん。
その息子の貞盛くんは官人として出世したいと考えていましたが、将門の乱で後ろ盾を次々に亡くしていきます。しかしその後将門くんを討ち取ったので、その頑張りを認められて大出世しました。これが、伊勢平家のご先祖様です。
一方、坂東八平氏のご先祖様である平良文は、高望王の側室の子。ここからまず、身分がちがいます。側室の子なので、高望王の東国下向にはついて行けませんでした。
その後、天皇から「相模国(神奈川県)の盗賊を退治しろ」と命令され、そのまま関東に済みました。将門の乱で何をしていたかよくわかっていません。
討伐に加わってもいないのに(むしろ将門くんに協力してたっぽいのに)、ちゃっかり将門くんの所領を配分されています。
その後ものんびり関東にいて、優しい人だったと伝承が残っています。
ちなみにここまで読んでもらってなんですが、当時の地方の系図なので、例によって曖昧です。平家は超名門なのでハッキリと系図は残っているのですが、それ以外の東国の平氏は僭称の可能性がかなり高いのです。
東国の平氏の中でハッキリと「桓武平氏だ!」と言えるのは、千葉氏ぐらいだと思います。