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後三年の役

後三年の役系図

三浦一族を語るには、まずここから語らねばならない。

ざっとした説明としては、当時奥州でブイブイ言わせていた役人「清原真衡」。
真衡には子供がいなかった。ので、成衡という養子を貰っていた。



1081~1083年頃

成衡に、八幡太郎源義家の妹を嫁にもらう。
その婚姻の席で、真衡とその叔父「吉彦秀武」がちょっとした事で大喧嘩。戦にまで発展。

秀武は、真衡と仲の悪かった異母兄弟、家衡と清衡に告げ口する。
家衡と清衡は真衡が秀武を攻めているうちに本拠地を叩こうとするも、真衡が軍を引き返して来るのを見て撤退。
真衡は再び秀武を討つ準備をする。

1083年 秋

陸奥守に任命された源義家が、国府に入る。(県知事が県庁に入るみたいなもの)
すかさず真衡は多賀城で義家を接待し、協力するよう約束する。
そして真衡が多賀城に入っているので本拠地を叩こうと、家衡と清衡は攻撃をしかけるも、
真衡は準備が整っていた上に国府まで味方についてしまったので返り討ちに合い、家衡と清衡は降伏する。

しかし真衡は本拠地に戻る途中に死亡してしまう!
義家は真衡の領地を家衡と清衡に分与した。しかしその配分に家衡は不満だったようだ。

1086年 冬

領地の配分を不服とし、家衡は清衡の本拠地を攻めた。清衡は妻子を含めた一族を皆殺しにされるが、どうにか生き延び、義家に助けを求めた。
しかし、季節は東北の冬。準備をしていなかった清衡・義家軍は敗北してしまった。

と、そこに家衡の父の弟である武衡が、勝利の知らせを聞いて家衡の味方につく。
「八幡太郎義家を破ったのは武人の誉!」とおだて、難攻不落の金沢柵に本拠地を移す。

義家は坂東から武士を呼び集めた。
その中に、三浦党の祖三浦為継や、鎌倉党の祖鎌倉権五郎景政もいた。

しかも当時兵士の武器や食料は自前で用意しなければならなかったが、
義家は何故か武器も食料も配給した。

準備を万全に整えて金沢柵を攻撃する。

1087年

攻撃をするも、金沢柵はなかなか落ちず、ついに秋になってしまった。
冬になっては戦どころではなくなってしまう。そこで義家側についていた吉彦秀武は兵糧攻めを提案する。

この作戦により弱体化した家衡軍は敗走し、打ち取られ、清衡は清原氏の領地全てを治める事となり、父の姓をなのって奥州藤原氏を名乗る。

その後、報告を受けた朝廷は「いや、これって家の中の喧嘩でしょ? 別に朝廷に謀反起こしたわけじゃなくて、義家がご家庭の事情に首突っ込んだだけでしょ?」と、恩賞の支払いを拒否し、陸奥守も解任する。

仕方なく義家はポケットマネーで坂東武者たちの恩賞を出した。
そんな義家に容赦なく襲う「官物未納」の催促!!
朝廷に納める分の金や食料まで戦に回していたため、予定の税を納られず、借金を背負う事となり、しかもこのことが原因でなかなか次の職に付けなかった。

職も金も失った義家。しかしそのお陰で坂東武者からの義家人気は大爆発。
三浦一族は「朝廷には従いたくないけど、源氏には末代まで従います!!」と誓ったそうな。

義家が借金を完済し、再び官職につけたのは10年後、1098年1月の事だった。

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